スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

江川事件と下田コミッショナーのお話

 ときどき思うのですが、日本人の英語は遠回しすぎませんか?
 クレームとか、申請ならまず最初にわかりやすく題名を書く。そして、1行めにまず用件、それから説明という順番のほうがいいと思います。とくに英検3級より上はエッセイがあるので、この点は大事です。

 さて、手塚治虫著「アドルフに告ぐ」は好きな漫画です。

   でも、漫画は漫画。史実とは違う点も多いです。

f:id:mmcompany:20190807131820j:plain

 少し話が飛びます。「江川事件」が起きたとき、私はまだ中学生でした。
 私は国分寺市と小平市の境目に住んでいたので、西武線の「鷹の台駅」でした。
 「鷹の台」の隣の「恋ヶ窪」駅まで電車に乗って、おりると国分寺市立第一中学校まで徒歩5分。
 徒歩でも30分ぐらいでしたが、遅くなるとあのへんは変質者がでます。定期を買ってもらっていました。
 ほぼ毎日、どきどきしながらスポーツ新聞をキオスクで買っていた記憶があります。
 西武鉄道が九州のライオンズを買収したばかり。

 クラウンライターライオンズは前年のドラフトで法政大学の江川卓を指名、「九州は遠いです」と断われていました。

 浪人中の江川は南カルフォルニア大学で、練習させていました。国会議員の世話で、三菱商事の上田さん方にステイしていたのです。上田さんは「会って話したい」という西武の申し出を断りつづけました。

 西武の怒りは大地の怒り?

 それまで西武系列のバスやタクシーはすべて三菱でした。

 翌年から日産ディーゼルに変更。三菱は数百億円の報復をうけたのです。

 ともあれ、江川は巨人がドラフトで当たりクジをひくのを待つことにした・・・かのように思えました。

 あっと驚くウルトラCを用意してあったのです。
 ドラフト会議の前日、ライオンズとの交渉権を切れたため、「空白の1日」という強引な解釈で、巨人が江川の入団を発表。

 場所は母校の作新学院の理事長で、元犬養毅首相の秘書官、現役の自民党副総裁、船田中の事務所でした。

 犬養首相の元秘書官て、こんなこと思いつくのか!?

 翌日のドラフト会議を巨人が欠席、阪神が一番クジで江川を指名。巨人は脱退して新リーグを作るとかすっだもんだ。
 新コミッショナーに下田武三が就任。一応パタパタと片付き、小林繁が江川と交換トレードで阪神タイガースのユニフォームを着るはめに。

後年、ライターになった私は下田さんと話をする機会を得ました。
 1907年生まれの下田さんは、来栖三郎よりちょうど20歳若い外交官でした。
 1943年から、敗色濃厚になったソ連(今のロシア)のモスクワ大使館に赴任。1945 年2月に帰国命令を受けました。

 シベリア鉄道では日本人は自分だけ。釜山港に到着すると、潜水艦の攻撃に備え、乗客全員に浮き袋が配布されました。
 下関港から列車に乗ると、東京の空が真っ赤に燃えています。3月10日の大空襲でした。
 ポツダム宣言は7月26日に発表。印刷したものが日本中に飛行機でばらまかれます。

 その日本語が稚拙なものだったので、若き下田さんが日本語訳しなおしたそうです。

 回答文をラジオで傍受して、翻訳したのも下田さんの仕事。subjectを「制限の下に置かれる」と意訳したのも下田さんのアイデアでした。

 下田さんは真珠湾攻撃の日のことも来栖大使のことも、よく知っていました。


「あの日、真珠湾攻撃よりも55分遅れて、大使がハル国務長官に提出したものは、”帝国政府ノ対米通牒覚書”ですよ。”宣戦布告文”ではありません。時間どおり提出していたとしても、奇襲は奇襲でした」
 私にそのことを気がつかせてくれたのは下田さんです。
「奇襲するつもりがなかったら、”declaration of war(宣戦布告)” と文書の上に書いて、”これから戦争しましょう”と数行です。翻訳に時間がかかるわけないでしょう」

 

 普通に考えたら、そうですよね。

 ただ来栖大使は明治の男ですから東京裁判のこともあり、ぐだぐだ言い訳はしたくなかったような気がします。東京裁判のキーナン判事に会ったときも、天皇の免訴について協力を申し出ています。

 もっと長生きしていたら、ぶちまけてくれたかもしれません。
 ちょうど手塚治虫の「アドルフに告ぐ」にもそんなシーンがあります。
 週刊文春の連載でしたが、手塚さんは休載が多かった。「ちょっと買ってきてくれ」と星野さんに言われたときのこと、思い出しました。

f:id:mmcompany:20190807132133j:plain

 リンク先の資料9をダウンロードすればわかります。長い文章の後、最後に「アメリカとは話し合いで解決したかったが、解決しそうに無いので交渉はやめます」という内容になっています。


  http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
 
 宣戦布告「開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」は真珠湾攻撃の後に御前会議を催し、発せられています。Bye now.