スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

原爆とシカゴ大学とバイリンガルのお話

 マンハッタン計画という言葉を聞いたことがあると思います。

 シカゴ・パイル1号(Chicago Pile 1,、CP-1)は原子炉の名将です。

 約90名のノーベル賞受賞者をだしたシカゴ大学。

 1942年11月、この大学内のフットボール場の観客席の下には、スカッシュのコートがありました。そこにパイル1号がつくられたのです。

 同年12月2日8時30分から実験がスタート。

 15時25分には科学者たちの手で、制御棒が引き抜かれました。

 史上はじめて、動継続的核連鎖反応を起こすことに成功します。

  まもなく場所を移してもっと大きな型がつくられ、1945年、広島、長崎の原爆につながりました。

 シカゴ・パイル1号はもう1台の原子炉とともに埋められ、そこには石の記念碑が建っています。
 ここには動画もでています。 

www.uchicago.edu

 シカゴ大学の敷地はかなり広く、名所はいくつもあります。フランク・ロイドが設計したロビー・ハウス、これが生徒名簿を管理する事務所として使われていました。

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 外務省の来栖三郎はニューヨーク赴任を経て、シカゴ総領事となります。

 ニューヨーク時代に知り合ったアリス・ジェイ・リトルと結婚し、やがて長男のボブ(日本名は良)、長女のジェイが生まれます。

 このロビーハウスの近くに住んでいたので、天気がいい日はほぼ毎日、このへんを散歩しました。

 1919年、第一次世界大戦を終わった年、来栖家は日本へ帰国します。

 その後も大使としてあちこち赴任しますが、ボブだけはそのまま8歳からずっと日本で育ちます。
 来栖家の娘たちは日本語の会話はできるのですが、書くのはかなり苦手だったようです。残された書簡をみると、「あ」と「お」を間違えたりしています。

 大使たちは子供たちの語学教育には皆、苦労したようです。私の娘たちもシカゴ生まれのバイリンガルなので、あまり人ごとではありません。

 半日だけ学校に通わせて、あとは家庭教師について勉強させたりもしました。

 吉田茂の妻、雪子は牧野伸顕の娘でしたから、夫婦げんかは英語だったそうです。
 東郷茂徳の娘のいせも、母親のエディがドイツ人でしたから、家ではほとんどドイツ語でした。

 来栖良の場合、外見がアメリカ人に近く、学校でも軍隊でもぼこぼこにいじめられました。たまたま稲田悦子先生の婚約者が同じ隊にいて、三船敏郎なんかもいたようです。

 とはいえ、日本で教育をうけた良は、日本男子で越中ふんどしを愛用していました。日本語の手紙も達筆です。コピーですが、初公開しますよ。もういいでしょう。

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 暁星中学ではフランス語やドイツ語を学びました。吉田茂の息子も暁星だし、与謝野晶子の息子もそうだし、外務省志望者は多かったそうです。

 が、良は外交官ではなく、子供の頃から飛行機が好きだったので、横浜工業へすすみます。

 そして、広島長崎の悲劇を知ることはなく、終戦の年の2月、福生基地で亡くなります。 

 ちょうど吉田茂が代々木の刑務所に収容されていて、「あんな好青年を・・・」と悔し涙にくれたそうです。

 高松宮日記にも来栖良の死亡記事がはさみこまれていました。高松宮も秩父宮も家が近く、スケートやスキー仲間でもありました。

 良の書簡はまだ私の手元にあるので、そのうちまた。

 Bye now.