紙の本が好きです。
といっても繰り返し読んだり、お風呂で読んだりするのが好きなので、文庫だとボロボロになってしまいます。でも、読みます。
さすがに古本はお風呂では読みません。それでも劣化がひどいのです。
事務所のほうでピー機を5年契約でレンタルしてので、ぼちぼちスキャンしておこうと思います。
50年以上たっているので、著作権も切れています。
2.26事件関連のものばかりです。
といっても、この来栖三郎著「日米外交秘話」(創元社昭和27年発行)という本は、2.26事件とは直接関係がありません。
私はノートに書かれた下書きも文庫版も読んでいます。ところが、校正の段階なのか、3割ぐらいの内容が削除されてしまっています。二二六事件の話もそうです。
来栖三郎大使の場合、妻はニューヨーク生まれのアメリカ人でした。
2月26日、来栖アリス夫人はてっきり陸軍の演習だと勘違い。三宅坂の三角地隊にある公園を占領した部隊に、近所の人たちと炊き出しのスープやおにぎりを差し入れしています。
現在、この場所には3人の女性の裸像が立っています。当時は寺内正毅の騎馬像でした。
あの日、三角公園に陣取っていたのは安藤輝三部隊でした。安藤は銃殺になっています。
どうして、私が来栖三郎の興味をもったかというと、しつこいけど、これがきっかけです。来栖三郎大使は星野監督の奥さんの祖父に当たります。終戦の年に生まれたので、一つ屋根の下で育っています。
私は霊感とか信じませんでした。ただ星野仙一事務所の事務員がしょっちゅう二二六の兵隊を見たそうです。なので、整理整頓がてら古い文献を読ませてもらったりしていました。来栖大使が書き残したものは、英語かドイツ語のものがほとんどでした。おそらく家族に読んでもらいたかったのでしょう。
とまあ、また226事件おたくなので、長くなってしまいます。
最初に書き留めておこうと思ったのは、ぶーんと話題が飛んで、東京裁判のくだりです。
隣人の近衛文麿とは違う日、来栖三郎も東京裁判のキーナン主席検事に呼び出されます。
GHQの事務所から焦土となった東京を一望しながら、キーナンは言います。
「今度の戦争で一般米国人のもっとも忘れがたい名は東郷でもないし、東条でさえもない。それは来栖という名である」
アメリカでは毎年12月になると、テレビが真珠湾攻撃の特集番組を組みます。そこで来栖三郎は「ダブル・クロス」(二重外交でだました)の外交官として紹介されていました。
ここに書かれているように、キーナン検事は米軍が傍受していたものの翻訳文を来栖に見せます。
来栖大使は11月26日、ワシントンから外務省の東郷茂徳大臣にむけて、「今少し時を稼いで」とか「海軍大臣にも相談して」という内容の電報を打ったとキーナン検事は主張しています。
がしかし、来栖大使にはそういう内容の電報を打った記憶がありません。
よくよく読んでいると、それは恐ろしい”誤訳“だったのです。
つまり来栖大使が「大統領より至尊に対し奉り」と書いたものを、おそらく「至尊」という意味がわからなかったのでしょう。米軍はgaining more time(時間を稼ぐ)と訳していました。
全然ちがいます!
もっとおかしいのは「海軍大臣」という言葉です。来栖三郎が書いた原文は「少なくとも内大臣まで御示のうえ」とあります。この「内大臣」がわからなかったらしい。米軍は海軍大臣の「米内」という名前を知っていて、適当に「内大臣」のことを「海軍大臣」と訳してしまったようです。
傍受されていることは来栖大使も気がついていました。途中からハル国務大臣の態度が冷たくなり、本国からの電報を手渡してもさっと目をとおすだけになったからです。
他にもいくつか誤訳は見つかります。
この誤訳がハル国務長官やルーズベルト大統領に大きな誤解を与えてしまったとしても、過言ではないでしょう。
いくらインターネットでぱぱぱっと調べられる時代ではなかったとはいえ、この翻訳はいい加減すぎたのでは?
今日は時間切れ。Bye Now!
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