スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

車いすの政治家、鳩山一郎のお話

 この写真の中に鳩山一郎さんもいるような気がするのです。

 でも、来栖さん鮎川さんしか私にはわかりません。

 私がコピーを所有しているので、詳しい方はツイッターでDMくださいませ。拡大したものを送ります。

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 車椅子の政治家。ぽんとひらめくのは、ルーズベルト大統領と鳩山一郎です。

 政治経済には詳しくないのに、しつこく昭和おたくな私。

 理由は星野監督の最初のマネージメント事務所が首相官邸の裏あたり、星野扶沙子夫人の実家がそこにあったからです。今でも都立日比谷高校の裏門あたりにありますよ。来栖ビル。

 次の写真は来栖三郎さんと息子のボブです。私は星野監督にちょっと似ているので、「神宮の恋」におちたのでは・・・と確信に近い思い入れ。当人たちはけらけら笑って、「ばかいうんじゃないよ」と言っていましたが。

 

 似てませんかね?

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 来栖三郎は5か国を習得し、東郷茂徳、重光葵らと外務省三羽烏と呼ばれていました。
 ドイツ大使のときはヒトラー、米国ではルーズベスト大統領とハル国務長官の両方と通訳ぬきで、話しをすることができたのです。
 真珠湾攻撃の当日まで、野村吉三郎大使と共にワシントンで日米交渉。そのまま捕虜生活に入りました。

 来栖家は近衛文麿邸の隣、軽井沢では鳩山一郎と隣人でした。
 鳩山はベルリン五輪のとき広田首相に頼まれて、ヒトラーとも会談しています。が、鳩山は東条英機とぶつかります。

 なので、戦争中の鳩山は議員をやめ、もっぱら軽井沢で野菜作りの日々でした。

 これが自伝によると、かなり楽しかったようです。


 「シカゴサンタイムス」のピーター・ゲインの「ニッポン日記」にはこんなエピソードがでてきます。

 来栖家の娘たちもせっせと野菜を作ります。

 鳩山一郎が「馬糞が肥料にいい」とアドバイス、娘たちは朝早く起きて馬糞を拾いにいきます。でも、ありません。なので次の日はもっと早く起きます。

 そしたら当の鳩山が馬糞を拾っているところでした。


「まあ、鳩山のおじさまだったんですね!」
「ふふふ、だから、馬糞がいいと言ったでしょう」


 そう言って、鳩山はたくさんの野菜をもたせてくれました。

 終戦の12月には来栖扶沙子さんが生まれています。

 そこから先は近現代史どおり。

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 受験には役だちませんが、個人的には麻生和子著「父 吉田茂」がおすすめ。面白いです。226事件のとき、彼女がとった勇ましい行動がすばらしい。

 和子さんは飯塚スケートリンクに近い豪邸に嫁入りした吉田茂の娘です。

 戦後、吉田内閣では英語に堪能な秘書官として、夫の麻生多賀吉と共に活動します。「昭和の淀君」とも呼ばれていました。

 長男の麻生太郎は運動神経がよく、もともとはスピードスケートで五輪出場をめざしていたそうです。

 1946年の総選挙で、日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が総理大臣・・・となるはずでした。ところが、土壇場で日本を占領していた総司令官マッカーサーが待ったをかけます。

 というのも、話しは戦前にさかのぼります。鳩山はベルリン五輪を見に行った際、広田弘毅に頼まれてヒトラーと会談していました。そのときの著作にナチスドイツのことをほめた箇所があり、そんなかんやで公職追放を食らうのです。

 鳩山が追放され、棚ぼたで誕生したのは、第一次吉田茂内閣でした。

 1951年に公職追放が説かれたとき、鳩山は脳溢血で倒れた直後でしたた。

 ともあれ、1952年からは車椅子で議員として復帰しています。

 戦前までは吉田茂とは仲が良かったのです。ロンドンの動物園にいって、サル山をみながら、「これが来栖、こっちが鳩こう・・」なんてやっています。

 ところが、戦後はじょじょに対立を深めていきます。

 吉田は再軍備反対。

 鳩山は改憲と再軍備を主張。

 鳩山は日本民主党を結党。1955年12月10日、ついに鳩山が総理大臣になります。

 このとき官邸には別な玄関と車椅子用のスロープが作られたそうです。
 ばいなう。