この写真の中に鳩山一郎さんもいるような気がするのです。
でも、来栖さん鮎川さんしか私にはわかりません。
私がコピーを所有しているので、詳しい方はツイッターでDMくださいませ。拡大したものを送ります。
車椅子の政治家。ぽんとひらめくのは、ルーズベルト大統領と鳩山一郎です。
政治経済には詳しくないのに、しつこく昭和おたくな私。
理由は星野監督の最初のマネージメント事務所が首相官邸の裏あたり、星野扶沙子夫人の実家がそこにあったからです。今でも都立日比谷高校の裏門あたりにありますよ。来栖ビル。
次の写真は来栖三郎さんと息子のボブです。私は星野監督にちょっと似ているので、「神宮の恋」におちたのでは・・・と確信に近い思い入れ。当人たちはけらけら笑って、「ばかいうんじゃないよ」と言っていましたが。
私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと
— 🇱🇷🇯🇵梅田香子⚾️Yoko Umeda (@yokoumeda) March 29, 2019
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似てませんかね?
来栖三郎は5か国を習得し、東郷茂徳、重光葵らと外務省三羽烏と呼ばれていました。
ドイツ大使のときはヒトラー、米国ではルーズベスト大統領とハル国務長官の両方と通訳ぬきで、話しをすることができたのです。
真珠湾攻撃の当日まで、野村吉三郎大使と共にワシントンで日米交渉。そのまま捕虜生活に入りました。
来栖家は近衛文麿邸の隣、軽井沢では鳩山一郎と隣人でした。
鳩山はベルリン五輪のとき広田首相に頼まれて、ヒトラーとも会談しています。が、鳩山は東条英機とぶつかります。
なので、戦争中の鳩山は議員をやめ、もっぱら軽井沢で野菜作りの日々でした。
これが自伝によると、かなり楽しかったようです。
「シカゴサンタイムス」のピーター・ゲインの「ニッポン日記」にはこんなエピソードがでてきます。
来栖家の娘たちもせっせと野菜を作ります。
鳩山一郎が「馬糞が肥料にいい」とアドバイス、娘たちは朝早く起きて馬糞を拾いにいきます。でも、ありません。なので次の日はもっと早く起きます。
そしたら当の鳩山が馬糞を拾っているところでした。
「まあ、鳩山のおじさまだったんですね!」
「ふふふ、だから、馬糞がいいと言ったでしょう」
そう言って、鳩山はたくさんの野菜をもたせてくれました。
終戦の12月には来栖扶沙子さんが生まれています。
そこから先は近現代史どおり。
受験には役だちませんが、個人的には麻生和子著「父 吉田茂」がおすすめ。面白いです。226事件のとき、彼女がとった勇ましい行動がすばらしい。
和子さんは飯塚スケートリンクに近い豪邸に嫁入りした吉田茂の娘です。
戦後、吉田内閣では英語に堪能な秘書官として、夫の麻生多賀吉と共に活動します。「昭和の淀君」とも呼ばれていました。
長男の麻生太郎は運動神経がよく、もともとはスピードスケートで五輪出場をめざしていたそうです。
1946年の総選挙で、日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が総理大臣・・・となるはずでした。ところが、土壇場で日本を占領していた総司令官マッカーサーが待ったをかけます。
というのも、話しは戦前にさかのぼります。鳩山はベルリン五輪を見に行った際、広田弘毅に頼まれてヒトラーと会談していました。そのときの著作にナチスドイツのことをほめた箇所があり、そんなかんやで公職追放を食らうのです。
鳩山が追放され、棚ぼたで誕生したのは、第一次吉田茂内閣でした。
1951年に公職追放が説かれたとき、鳩山は脳溢血で倒れた直後でしたた。
ともあれ、1952年からは車椅子で議員として復帰しています。
戦前までは吉田茂とは仲が良かったのです。ロンドンの動物園にいって、サル山をみながら、「これが来栖、こっちが鳩こう・・」なんてやっています。
ところが、戦後はじょじょに対立を深めていきます。
吉田は再軍備反対。
鳩山は改憲と再軍備を主張。
鳩山は日本民主党を結党。1955年12月10日、ついに鳩山が総理大臣になります。
このとき官邸には別な玄関と車椅子用のスロープが作られたそうです。
ばいなう。