NHKの「いだてん」を見たら、最後のほうにIOC(オリンピック委員会)のラトゥール伯爵がでてきました。わーお!
アンリ・ドバイエ・ラトゥール(Le comte Henri de Baillet-Latour)。ベルギーのブリュッセル出身の貴族です。
最初は「日本は遠すぎる」とのりきではありませんでした。
日本視察目前に2.26事件が起きて、3月1日になんとか終結。まだ戒厳令中。関係者は「もうラトゥールは来ないのでは?」と頭をかかえこみます。
ところが、ラトゥール伯爵は予定どおり3月20日に横浜港に到着しました。数百人の小学生がベルギーと日の丸の小旗をふって出迎えます。
開催予定地の明治神宮外苑に感嘆して、
「ごたごたした装飾が一切ないのに、なんとまあ、美しいテンプルなのだ。」
3月27日に宮内庁から連絡が入ります。
「突然で驚かれるかもしれませんが、天皇陛下がじきじきにラトゥール伯爵にお目にかかりたいという御言葉がありました」
いわば王族なのだから、ラトゥールは感動にひたります。
高松宮家でも食事に招待され、こちらは来栖三郎も良も同席します。上機嫌で帰国してくれました。
同じ月、女中部屋に隠れて命拾いした岡田啓介内閣は退陣。
新しい総理大臣は近衛文麿がいったん指名されたものの、断固拒否します。この時代は議会ではなく、天皇の主権があり、いわば大命に背いたわけです。
近衛は「爵位を返す」という論議も起きました。
代わりに元老、西園寺公望は福岡出身の外務大臣、広田弘毅を天皇に推します。
「ヒロッタ内閣」と書いた新聞もあります。
広田はアムステルダム五輪のときのオランダ大使。選手たちをリラックスさせるため、一緒に佐渡おけさを踊ったほど、オリンピック好きでした。
総理大臣官邸はまだ血まみれ。シャンデリアはくだけ、壁は機関銃の穴だらけ。広田は「宮内庁を使わせてほしい」と頼むのですが、断られ、外務省の一室で組閣を練ります。
そこへ寺内正寿や武藤章がサーベルをがちゃがちゃ言わせて、外務省まで押しかけてきます。
「牧野の娘婿(外務大臣候補の吉田茂のこと)は許さんぞ」と脅かします。もはや軍事政権です。
(寺内は芸者を連れて南方戦線でゴルフ三昧。終戦直前、病死します。広田は在任中に“南京虐殺”があり、東京裁判で軍人たちと処刑されます。このへんは城山三郎の「落日燃ゆ」に詳しい)
日本はすでに国連を脱退。
広田内閣は日本が世界から取り残されてしまうのを怖れ、文化やスポーツの面では努力を重ねます。鳩山一郎は「ドイツに行くと言ったら、広田くんはすぐ親善大使にしたがる」とグチをこぼしたほどです。
そうそう、近衛文麿の弟の近衛秀麿も最初は親善大使でした。(後にユダヤ人の音楽家をかくまい、追われる身となります)
吉田をイギリス大使に任命、来栖三郎も同じ5月21日、ベルギー大使として、それぞれ横浜港を出発しました。
来栖はアリス夫人と共に、ベルギーの首都ブリュッセルではバイオリンの諏訪根自子の後見人となります。同時に東京五輪の実現に向けて、ラトゥール伯爵との交渉を継続します。
ヨーロッパで吉田と来栖はお互い行き来します。「日中戦争を終わらせよう」と誓いあい、そこに杉村陽太郎や重光葵や東郷茂徳も加わります。(東郷の娘はベルリン大使館の目の前でスケートを習っていて、五輪候補選手でもありました。参考→
このときも来栖家は息子を日本においてゆきます。
年末年始はスイスですごし、この葉書にも「すーいすーい」とあるように、良はだじゃれが好き。武蔵小金井駅をとおるとき、「武蔵って子がねえ、宮本武蔵って子供がいなかったんですかね?」なんて言ったりもしました。
夏休みを利用して、良はベルギーにやってきます。ちょうど帰国の日、ヒトラーが戦争をはじめ、アメリカまわりで日本に帰っていきました。
皮肉なことに、東京五輪と札幌五輪はいったん決定したものの、鉄が不足して建設予定がすすみません。「明治天皇ゆかりの神宮を毛唐に使わせる気か」と陸軍と木戸幸一も反対しはじめます。
ベルギーがラトゥール伯爵が面会し、返上案を「日本の友として進言したい」と忠告した相手は来栖大使でした。
その時点ではまだ五輪そものが中止になったわけではなく、東京の代わりにヘルシンキで開催し、代替えとして満州も参加国として認めるという提案だったのです。
Bye now.