MM編集部とその周辺。

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

#真珠湾攻撃 宣戦布告文ではなかったお話

 これはブログとツイッターの再録です。

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 1907年生まれの下田武三(コミッショナー、元外務省)は、来栖三郎よりちょうど20歳若い外交官でした。
 1943年から、敗色濃厚になったソ連(今のロシア)のモスクワ大使館に赴任。1945 年2月に帰国命令を受けました。
 シベリア鉄道では日本人は自分だけ。釜山港に到着すると、潜水艦の攻撃に備え、乗客全員に浮き袋が配布されました。
 下関港から列車に乗ると、東京の空が真っ赤に燃えています。3月10日の大空襲でした。
 

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 ポツダム宣言は7月26日に発表。印刷したものが日本中に飛行機でばらまかれます。

 その日本語が稚拙なものだったので、若き下田さんが日本語訳しなおしたそうです。

 回答文をラジオで傍受して、翻訳したのも下田さんの仕事。subjectを「制限の下に置かれる」と意訳したのも下田さんのアイデアでした。

 下田さんは真珠湾攻撃の日のことも来栖大使のことも、よく知っていました。


「あの日、真珠湾攻撃よりも55分遅れて、大使がハル国務長官に提出したものは、”帝国政府ノ対米通牒覚書”ですよ。正式な”宣戦布告文”ではありません。時間どおり提出していたとしても、奇襲は奇襲でした」
 私にそのことを気がつかせてくれたのは下田さんです。
「奇襲するつもりがなかったら、”declaration of war(宣戦布告)” と文書の上に書いて、”これから戦争しましょう”と数行で終わりますから、翻訳に時間がかかるわけないでしょう」

 

 普通に考えたら、そうですよね。

 ただ来栖大使は明治の男ですから東京裁判のこともあり、ぐだぐだ言い訳はしたくなかったような気がします。東京裁判のキーナン判事に会ったときも、天皇の免訴について協力を申し出ています。

 もっと長生きしていたら、ぶちまけてくれたかもしれません。
 ちょうど手塚治虫の「アドルフに告ぐ」にもそんなシーンがあります。
 週刊文春の連載でしたが、手塚さんは休載が多かった。「ちょっと買ってきてくれ」と星野さんに言われたときのこと、思い出しました。

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 リンク先の資料9をダウンロードすればわかります。長い文章の後、最後に「アメリカとは話し合いで解決したかったが、解決しそうに無いので交渉はやめます」という内容になっています。


  http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
 
 宣戦布告「開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」は真珠湾攻撃の後に御前会議を催し、発せられています。Bye now.