これはブログとツイッターの再録です。
それは手塚治虫の「アドルフに告ぐ」でしょう。その後でさまざま資料が公開されているから、今はもうその説は古いんですよ。https://t.co/hGuNzNJxuc
— 梅田香子 🇺🇸新刊「ヒトラーと握手した日本の少女 稲田悦子伝」 (@yokoumeda) 2021年12月5日
これハル国務長官に渡したものを英文で読んでみてください。だらだらと長いばかりで肝心の「宣戦布告」という文字がありません。😎米国への通告前に真珠湾奇襲 国際法違反をあえて選んだか | 毎日新聞 https://t.co/5ZXF2rHIn2
— 梅田香子 🇺🇸新刊「ヒトラーと握手した日本の少女 稲田悦子伝」 (@yokoumeda) December 9, 2021
1907年生まれの下田武三(コミッショナー、元外務省)は、来栖三郎よりちょうど20歳若い外交官でした。
1943年から、敗色濃厚になったソ連(今のロシア)のモスクワ大使館に赴任。1945 年2月に帰国命令を受けました。
シベリア鉄道では日本人は自分だけ。釜山港に到着すると、潜水艦の攻撃に備え、乗客全員に浮き袋が配布されました。
下関港から列車に乗ると、東京の空が真っ赤に燃えています。3月10日の大空襲でした。
ポツダム宣言は7月26日に発表。印刷したものが日本中に飛行機でばらまかれます。
その日本語が稚拙なものだったので、若き下田さんが日本語訳しなおしたそうです。
回答文をラジオで傍受して、翻訳したのも下田さんの仕事。subjectを「制限の下に置かれる」と意訳したのも下田さんのアイデアでした。
下田さんは真珠湾攻撃の日のことも来栖大使のことも、よく知っていました。
「あの日、真珠湾攻撃よりも55分遅れて、大使がハル国務長官に提出したものは、”帝国政府ノ対米通牒覚書”ですよ。正式な”宣戦布告文”ではありません。時間どおり提出していたとしても、奇襲は奇襲でした」
私にそのことを気がつかせてくれたのは下田さんです。
「奇襲するつもりがなかったら、”declaration of war(宣戦布告)” と文書の上に書いて、”これから戦争しましょう”と数行で終わりますから、翻訳に時間がかかるわけないでしょう」
普通に考えたら、そうですよね。
ただ来栖大使は明治の男ですから東京裁判のこともあり、ぐだぐだ言い訳はしたくなかったような気がします。東京裁判のキーナン判事に会ったときも、天皇の免訴について協力を申し出ています。
もっと長生きしていたら、ぶちまけてくれたかもしれません。
ちょうど手塚治虫の「アドルフに告ぐ」にもそんなシーンがあります。
週刊文春の連載でしたが、手塚さんは休載が多かった。「ちょっと買ってきてくれ」と星野さんに言われたときのこと、思い出しました。
リンク先の資料9をダウンロードすればわかります。長い文章の後、最後に「アメリカとは話し合いで解決したかったが、解決しそうに無いので交渉はやめます」という内容になっています。
http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
宣戦布告「開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」は真珠湾攻撃の後に御前会議を催し、発せられています。Bye now.
昔から昭和史おたくだったので、初対面の人とも話がはずんだ時期もあった。私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと
— 梅田香子 🇺🇸「ヒトラーと握手した日本の少女 稲田悦子伝」 (@yokoumeda) 2021年12月26日
文春野球コラム ペナントレース2018 #dragons #文春野球 #文春オンライン https://t.co/ciUBKhwvoU
私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと
— 🇱🇷🇯🇵梅田香子⚾️Yoko Umeda (@yokoumeda) March 29, 2019</blockquo
文春野球コラム ペナントレース2018 #dragons #文春野球 https://t.co/Roz4FqogWste>その後でいろいろな文書が公開になっていますからね。マッカーサーは日本人は近視ばかりだから飛行機の操縦はできないと思い込み、「ドイツ人のパイロットを雇って真珠湾を攻撃した」なんて、報告書もだしています。https://t.co/jKoPT9BFwx
— 梅田香子 🇺🇸新刊「ヒトラーと握手した日本の少女 稲田悦子伝」 (@yokoumeda) December 13, 2021