↓ このイラスト、最高でしょう。226事件の将校たちもツイッター上で公開されています。
#いだてん 43話
— ナツキ シノブ@tia130/S17b (@ntksnb) November 17, 2019
この大河に出てくる通訳さんて印象深い方々ばっかりなの何でなん…。
国々が絡むスポーツと政治、その理想と現実、川島のやり口、まーちゃんらの焦りがよく伝わってきてハラハラした。#絵だてん #いだてん絵 pic.twitter.com/4v6cPHg1GO
まあちゃん、田畑政治は東京五輪を2年後に控えて、なぜ辞任においこまれたのでしょう。
大きな理由は2つです。
まず、英語ができなかったこと。
加納治五郎は英語に堪能でした。日本は戦争中、敵国語の英語を禁止してしまったので、通訳が不足していた時代です。
二つめの理由は、田畑と津島寿一の2人で、体育協会の会長と総務主事、JOCの委員長と名誉主事、組織員会の会長と事務総長。さらに選手強化本部長まで請け負っていたのです。人材不足とはいえ、無理がありすぎたと思います。
ジャマイカでの日本選手団引きあげは、不運なできことでした。
あの後、インドネシアは五輪憲章に違反した(台湾とイスラエルにビザを発行しなかった)ため、IOC委資格停止から資格停止処分を通達されます。
3年後、スカルノ大統領は後にクーデターで失脚します。第3夫人だったか第4だったか、デヴィ夫人とも婚姻関係にありました。
すでにIOC会長のラツールはナチに占領された母国ベルギーで、ヒトラーを恨みながら亡くなっています。
後任は米国人のブランテージ(Avery Brundage)でした。陸上の元五輪選手で、建設業で成功をおさめ、ヒトラー礼賛でいっときは追放された人物の返り咲きです。
ドイツびいきで、妻もドイツ人、彼が建てたラサールホテルはデザインがすばらしく、中でもドイツ風の部屋が有名でした。
ブランテージといえば、アジアの美術品のコレクターでもあります。
やや偏屈で強烈なアマチュア主義でした。日本が五輪を返上したときとても残念がり、戦後も日本参加を積極的におしてくれました。
政治家が田畑を追放したがったということはなかったようです。政治記者出身の田畑は河野兄弟をはじめ、政治家との強いパイプをもっていました。(子孫は今の外務大臣、河野太郎です)
知りませんでした。ありがとうございます。 https://t.co/dhFUGKXUiX
— 河野太郎 (@konotarogomame) November 11, 2019
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というのも、田畑、津島がが辞任した後、なりてがいなくて、半年近く空白になってしまいます。
商工会議所の所長や小泉信三博士が候補にあがり、断られてしまいます。
さらに国連代表の岡崎大使やジャパンタイムスの社長もにも断られます。
最後にやっと決まったのが与謝野秀、与謝野晶子の次男でした。
フランス人がつくった暁星に通った与謝野はスポーツ好き。フランス語も英語もできました。帝大法学部を出た後、外交官試験にも受かり、ヨーロッパ諸国を渡り歩きます。
日本はまだ中国をはじめ東南アジアとは講和条約を結んでいません。沖縄も小笠原もまだ日本に返還されていなかったのです。
どこの国にも国際競技連盟みたいなものがあって、国内ルールがあり、IOCにはIOCのルールがあり、まだ統一されていません。ジャマイカにかぎらず、国際問題は山積みだったのです。
与謝野はひとつひとつの国の問題と向かい合い、辛抱強く交渉して解決に結びつけていきます。ブランテージ会長との仲も良好でした。
田畑は「スポーツと共に半世紀」に書き記しています。
「たとえ辞めても明鏡止水の心境だと伝えられたのは、まったくの嘘である。巧言令色の徒や、自称オリンピック通につけ入られ、参加国選手や国内競技団体の不満を爆発させるようなことにならないかと、心配の種はつきることがなかった。われわれは、文字通り血の出る思いをしてレールを敷いた。そして、私が走るはずだった、そのレールの上を、別の人が走ったのである」
田畑がいなかったら東京五輪はあの時期、まだ実現しなかったのも事実。けれども、田畑がいたから東京五輪が実現したのではなく、焼け野原から立ち直りつつあった日本人全員の情熱があったからこその五輪でした。
Bye now.