瀬島龍三。伊藤忠商事の元会長、中曽根総理大臣のときのブレインでした。
いまどき彼の名に興味をもつ方が少ないと思います。この本の表紙は東京裁判で証言している写真です。
昔、巨人の渉外担当のリチャード背古さんという方がいました。取材対応にはとても柔らかなのですが、肝心要のことは決して話せない。のらりくらり交わす優秀な人材。「瞬間湯沸かし器」ではなく、「瞬間ごまかし器」というあだ名がついていました。
まあ、これは職務として、当然のこと。
瀬島さんも「瞬間ごまかし器」だったので、重要なところになると話をそらす。「シベリアで左官を毎日やらされた」とか、すぐにばれるようなウソもつく。
ただこの本の著者は歴史探偵ではなく、東急グループで社長をされた方のようです。瀬島さんとは個人的な付き合いだったせいか、あの手この手で本音をひきだしています。
私がいちばん知りたかったのは、真珠湾の直前、来栖三郎大使が外務省の寺崎英成と「陸軍に命をとられる」覚悟で、戦争回避のために奔走したルーズベルトの親電です。これは「マリコ」という本で詳しい。ドラマになっています。もう一度見たいなぁ。
陸軍参謀本部では「来栖の飛行機墜落を祈るもの」ともいたそうです。
東条英機がどうこうより前に、若い兵隊たちはアメリカをやっつけたくて、うずうずしていた熱気が伝わってきます。
その渦中に若き参謀として、瀬島さんはいたわけです。
ルーズベルト大統領が昭和天皇にあてた親電は12月7日正午、東京中央電信局に入ります。
短波放送ですでに親電のことは報道されていたため、によると天皇陛下は短波で知っていて、
「木戸も心配して待ち受けたが一向に来ない。どうなったのかと思っていると、ついに十二月八日午前三時に東郷(茂徳)が持ってきた。」(「昭和天皇独白録」より)
木戸幸一さん・・・なんてたぬき。
東京裁判で明らかになったですが、参謀本部通信参謀、戸村盛雄少佐が「10時間だけは配達を遅らせろ」と軍刀をぬいて局長を脅かしたそうです。
こんなだいそれたことを戸村少佐が一人で思いついたのかどうか。ルーズベルト大統領から昭和天皇への親電ですよ。
この著者が瀬島さんにこの点を聞くと、またまたいつものごまかし。
「通信参謀の戸村少佐とは、常に連絡をとりあっていましたからね。電報は日々、たくさん届く。親電の件についても報告を受けたのは覚えているが・・・。そのことについては戸村さんが、書いています」
とはぐらかした。
このへんにしておきます。ともかく私のこの昭和史おたくぶりは評判がよろしくない。
「星野仙一のファンだからって、そこまで掘り下げる意味ってある?」
ありません。
そのとおりなのですが、いろいろ話にとっかかりにはなりましたよ。
この著者は東大を出た後、明治生命に入社。なんと五島慶太の後をついだ五島昇にヘッドハンターされて、東京エージェンシーに加わり、創業メンバーの一人でした。
五島慶太という方は戦前、東京五輪を返上させないよう、奔走されました。
自分のゴルフ場の土地を提供するなど、木戸幸一に寄付を申し出ています。
時流の流れに逆らえず、東京と札幌五輪が流れてしまうのは知ってのとおり。
五島昇氏は国土計画の堤義明と仲がよく、長野五輪開催を実現するなど、日本のウィンタースポーツにはとても貢献されていました。
子孫たちは皆、名字が変わってましたが、フィギュアスケートやっていました。シカゴの家にホームステイしたこともあり、なかなかの好青年だったのです。
ばいなう。