ヘレンケラーが来日したとき「あれは障害者を売りにしているのだよ」という軍人たちの声を聴いて重光葵はこう書きます。「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人の為に悲しむべし」
— 🇱🇷🇯🇵梅田香子⚾️Yoko Umeda (@yokoumeda) 2019年7月23日
当時の義足は鉄で、10キロぐらいありました。
ミゾーリ号で降伏文書にサインするとき、車いすのまま引き上げる作業が大変で、秘書の加瀬英明は「写真を撮るな」と叫びました。(自分でそう本に書いています)
戦後は東京裁判で懲役7年の判決。恩赦で刑は短くなります。
戦後、3回衆議院選挙でも選ばれました。
重光さんは車椅子の外務大臣でした。国会には付き添い人もつきました。
何度か総理大臣の手前までいきます。が、野党の足並みがそろわず、吉田茂の説得に応じた後、鳩山一郎の日本民主党に加わります。
鳩山総理大臣のとき外務大臣でしたから、大臣2人が車いすだったわけです。
国会では介添え人もつきました。鳩山さんは脳こうそくの後遺症で、半身麻痺です。
ただ当時は車いすの写真はあまり撮らず、上半身だけとか、杖で立つ写真がほとんどです。
重光は長生きされたので本もたくさん書いています。
どれも面白いです。「昭和の動乱」はメモ書きっぽい。二二六事件のとき昭和天皇を幽閉して、弟殿下(秩父宮)を即位させるプランをちらっと軍人から聞いていたそうです。
鈴木貫太郎らも同じ不安を抱えていました。宮城(皇居)の改修工事のときなど、気をつけなければ天皇陛下がそこに幽閉されてしまう恐れがある、と。
おすすめは中公文庫の「外交回想録」で、たしか「文藝春秋」に寄稿した「隻脚記」を再録しています。これはもうはらはらどきどき、いろいろな面でおすすめです。
まず重光は第一次上海事変を停戦させるため、軍司令官の白川義則大将を必死で説得します。
白川は愛媛出身、前陸軍大臣です。秋山好古が目をかけ、臨終にもたちあいます。
昭和天皇は涙ながらに、
「決して長追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られた。お前なら守ってくれるであろうと思っている。」
と白川に伝えます。
ところが、いざ戦場にでてしまうと、人は変わってしまうものです。
参謀本部の指令だといけいけどんどん、白川はなかなか決断できません。
重光の度重なる説得で白川は3月3日、ようやく停戦の命令をだしました。
これで白川と重光は陸軍の怒りをかいます。
1932年(昭和7年)4月29日上海の虹口公園(現魯迅公園)で天長節の式典。
この公園は冬はスケート場にもなり、近くに魯迅や朝日新聞の尾崎秀実ら、日本人が多く住んでいました。
小雨の中、海軍の軍楽隊によって、君が代が演奏されます。
檀上で2回目の君が代が終わろうとしたとき、金属製のお弁当箱みたいなものが式壇に投げつけられます。
海軍の野村吉三郎大将(ルーズベルトとは旧知で、後に来栖三郎と日米交渉)が、
「爆弾!二発目がくるぞ!」
と叫んだものの、重光は「君が代がまだ終わっていないから」と動きません。
爆発してからは最大級の痛みで、立ち上がれません。ステッキで立とうとしたら折れてしまいます。
これはテロの瞬間の映像のようです。
病院にかつぎこまれてから、重光は100以上の破片が主に右足と右腕に食い込んでいることがわかります。1度の手術では終わらず、痛みで1週間眠れません。
右足を切断することになりました。
外務省をやめて満鉄の社長になっていた松岡洋右が毎日、病院まで見舞いにきてくれました。
野村はこのとき片目を失います。
白川はいったんは小康を取り戻したのに、5月23日に容態が急変、26日には亡くなります。このへんは謎が多いようです。
爆弾テロの主犯は銃殺刑。不思議なことに、終身刑の廉応沢は後に日本軍に加わります。
226事件の生き残り、黒崎貞明の部隊に加わるのです。
南満抗日連合軍司令官兼第一司令官の揚成宇と第2軍司令官の金日成の討伐を目標におきます。
それについては昔、こちらで書いたことがあります。
重光に話を戻します。
とてもポジティブな思考をする方です。足を切断手術したときは、
「これで大隈重信(元総理大臣、右足が義足)と同じだ」
巣鴨刑務所に入るときは、
「明治の偉人は皆、ぶちこまれているものだ」
なんて考えます。
もしかすると、そのうちNHKの「いだてん」でもでてくるのかもしれません。
1938年、パリで吉田茂、来栖三郎、杉村陽太郎と会談。1日も早く日中戦争を終わらせよう、と誓います。ただ杉村大使は癌で手術を繰り返し、すっかりやせ細っていました。
杉村陽太郎は加藤雅也が演じています。ばいなう。