スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

続・フォードの怒りは米国の怒り~岸信介VS親米英グループ~

  私が先祖をたどるのは特定の人物や政治家をおとしめる目的ではなく、ただ単に昭和初期の歴史が好きだからです。
 とくに来栖三郎に興味をもつ人は少なく、本によっては「栗栖」なんて漢字を間違えているものもあります。
 もともと興味をもったのは星野仙一がらみです。が、その人脈をひろげていくと面白くって、時間がたつのをつい忘れてしまいます。

 吉田茂が来栖のことを「盟友」と呼んだ書簡が残っています。

 鳩山一郎と同じ頃、来栖が脳溢血でリハビリ中だったとき、吉田は永田町の自宅にはしょっちゅう来て、助言を求めました。軽井沢駅前の「油や」には来栖の姉が嫁いでいて、何度か吉田からの電話を取り次いだそうです。


 なので、星野監督の妻が赤ちゃんのとき、吉田茂に抱っこされている写真を見たこともあります。今だったら写メしたのに。

 さて、吉田と来栖ら親米英グループは外務省時代から、自動車産業をめぐって、岸信介グループと対立しつづます。

 これが日米開戦の一因につながっていく。
 

 米国フォードを日本から追放

     ↓

 アメリカ国務省が激怒

     ↓

 鉄と石油の輸出ストップ

     ↓

    真珠湾攻撃

  岸信介自身、フォードの怒りのことはふれたくないのか、自伝ではざっくりはぶいています。

 だいたい軍人が書いた本はどれも、アメリカがいきなり石油の輸出をとめて、日本を戦争に追い込んだことになっています。
 石油の輸出をとめたのは、阿部信行総理大臣のとき、日米通商条約を更新できなかったから。そこをはしょっていいもの?

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 たまたま偶然、阿部信行総理の子孫は私と同じ幼稚園、今はフィギュアスケート連盟です。名字は変わっています。同時に東条英機を首相に推薦した木戸幸一の子孫でもあります。
 どうでもいいことついでw私の父は山口出身で、2番目に勤務した石油精製会社は岸信介の息子の会社でした。
 かつて岸信介グループが米国フォードを日本から追い出す法案をまとめた部屋は、商工省の一室。後の特許庁、私や妹が学生のときバイトしていた場所です。
 なんとなく興味を前からもっていたので、ここでは岸信介の年表を整理しておきます。
  • 明治29年 県庁の官吏だった佐藤家に信介、誕生。山口県という土地柄なのか、曾祖父は吉田松陰や幕末の志士たちと交流があった。

  • 明治36年 信介、小学校にあがる。貧しい子から帯を取り上げ、何度も捨てて、その子はしまいに縄を帯代わりにして来た。典型的な金持ちのいじめっ子。反省していると自伝でふりかえっている。

  • 明治44年 面倒をみてくれた叔父が亡くなったため、山口中学2年に編入する。卒業まで佐藤を名のり、高校は岸信介として入学する。岸家への養子縁組のため。許嫁つき。

  • 大正4年 信介、山口県から上京。一高を受験し、合格。憧れの寮生活をはじめる。

  • 大正5年 代々木に借家を見つけ、母と妻と暮らす。18歳と14歳の夫婦。住み込みの女中も一人。内村鑑三の子息、内村祐之(後にプロ野球コミッショナー)が東大のエースで、信介もせっせと応援に通う。大学時代もっとも影響をうけたのは北一輝(二二六事件で処刑。弟は国会議員)。

  • 大正9年7月 帝大を卒業してそのまま農商務省へ通勤する日々。初任給45円に特別手当30円がついて合計75円。後に農商務省から商工省が独立、これが今の通産省の前身にあたる。

  • 大正12年 中野に一戸建てを購入。関東大震災では現場で指揮する。

  • 大正15年 アメリカ独立150周年の記念博覧会でフィラデルフィアを視察。先進資本主義をみせつけられ、アメリカにたいして「一種の反感を持った」と漏らす。帰りはロンドン経由してドイツに立ち寄り、「日本のゆく道はこれだ」とめざめる。

  • 昭和4年 浜口雄幸内閣の官吏一割減俸案に反対して、リーダー格となる。

  • 昭和5年 ふたたびドイツ視察。この頃、同じ長州出身、商工省の上司、木戸幸一から目をかけられるようになった。

   
 ここが日本にとって分岐点となります。「岸信介の回想」の中でもこの木戸幸一への4000字近い手紙が公開されています。
 この手紙は後の「重要産業統制法」(1931年)から、自動車への特殊立法。
 この「統制経済」という思想に陸軍は飛びつきます。

  • 昭和10年4月17日 人事異動で岸が商工省工務局長に就任。38歳の若さ。

  • 同年、陸軍省と商工省は自動車の国産化をめぐって歩み寄り。ただ日本車はトラックやバスが中心で、自動車はまだまだ。どちらも主要なパーツは輸入にたよっている初期の段階にあった。

  • 同年4月、フォードは組み立て工場用に鶴見川の埋め立て地を買収に動く。売り手の浅野良三には陸軍から「売るな」という圧力がかかる。が、親米英派グループもこれを後押し。浅野社長は岡田啓介(元海軍)首相と話し、陸軍省にも出向く。

  • 同年5月20日、信介は商工省からフォードの「土地売買契約反対」を決定、公表。とはいえ、フォード社に遺されている当時の文書によるとを、「日本の政府方針は内閣が変わるたびにころころ変わるものです」とあまり気にかけてはいない。

  • 同年7月24日、浅野・フォード間で土地売買契約成立。陸軍激怒。

  • 同年8月9日、陸軍省と商工省で、アメリカ車の締め出しを合法的に行うため、「自動車工業法要綱」が閣議で決定。岸信介はさっそく日本フォード支配人ベンジャミン・コップに文書をおくっている。

  • 昭和11年1月。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーから国務長官のコーデル・ハルに電報が打たれた。それよりも前から米国国務省は再三、フォードの工場を日本からしめだす「自動車工業法案」が「日米通商条約」に違反していることを指摘。この点をうけて、外務省の通商局長の来栖は岸信介グループに警告していた。

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 土地を売った浅野社長は吉田茂たち親米英グループの側の人間です。陸軍からはにらまれています。

 岸信介グループは陸軍、とくに東条英機とも柳川平助ともつながっています。つまり二二六事件で対立した皇道派とも統制派とも、いい関係にあったということです。

 陸軍は外務省のことを「害無省」と呼び、日独伊三国同盟に至るまで、外務省とは衝突しつづけます。

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 ドイツを手本とする岸信介グループは、車を武器とみなします。

 事実、第一次世界大戦の終わりから車や戦車は勝敗を左右する、野球でいうとDHみたいな役割を果たしていました。

 「産業上の競争ではなく」、「国防上の」という言葉を法案に加える奇襲で、強引に法律を成立させます。

 こんな茶番劇、フォードや国務省が納得するわけがありません。

 阿部内閣は「日米通商条約」を更新することができませんでした。

 わずか4か月の総理大臣です。アメリカからの輸入は制限されるようになり、国内で石鹸などあらゆる物資が不足します。

 日中戦争が長引いていることもあり、鉄も石油もやがて止まります。

 わずか5年たらず。

 1941年、このハル国務長官がワシントンで、来栖大使と野村大使にいわゆる「ハル・ノート」を手渡します。

 そして、日米開戦。

 真珠湾攻撃と同時に米国領だったフィリピンを占領。山下泰文将軍が降伏文書にサインさせたのは、米国フォード工場でした。

 ほんのしばらく、陸軍は戦利品で車には困らなくなります。しかし、その代償はあまりに大きく、本土は焼け野原になりました。

 この後の日本史や岸信介について、wikiのほうが詳しいはず。なので、はしょります。


  Bye Now