たしかにそうだと思っていました。東京新聞はそういう会社です。
望月衣塑子記者と面識はありません。たぶん・・・といって、私はけっこう名刺を交換していたりするからなぁ。でも、社会部とはあまり接点がなかったと思います。
この本を読んで、とても感銘を受けました。
東京新聞は1963年から中日グループが参入し、買収しました。
なので東京新聞=中日新聞の東京支社、中日スポーツの東京支社でもあります。
「トーチュウ」こと、東京中日スポーツも以前は東京新聞と同じ品川本社内にありました。
報道部の天井や壁には、タバコでくすんだ透明な筒がかけめぐっていました。
この筒を原稿用紙が走って、校正部などを経て、次々と印刷室の輪転機に投げ込まれてていきます。
敷地内には屋内練習場があり、ドラゴンズが東京で試合するとき、そこで特打を取材します。落合博満もいました。
私は22歳のときから、ここで新聞に原稿を書くイロハを教わりました。4年大学もでていないのに。強力なコネがあったのです。参考にはならないでしょうが、興味あったら参照してください。
私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと #dragons #文春野球 bunshun.jp/articles/-/7634
実は短大を卒業した年の10月、中途採用の募集で東京新聞の経理課を受けました。
採用は一人なのに200人ぐらいの受験者。1次の作文と2次の面接は通過したようです。翌日、人事部から電話がかかってきました。
「次点です。もし一番の人が断ったら、梅田さんになります」
でも、そのまま電話がかかってきませんでした。
なので、東亜燃料の途中採用、これも約300人が受けて、なぜか合格。晴れて銀座のOLになりました。
この月はよほど運気が高まっていたのでしょうか。
初出社の次の日、河出書房新社から電話がかかってきたのです。
「あなたが書いた”勝利投手”が文藝賞の最終選考に残っています。とても面白いので編集部では入選してもしなくても本にしよう、という話になっています」
急転直下、銀座のOLどころか、もう翌年の2月から九州・沖縄でプロ野球キャンプめぐりです。
正規の社員ではなかったけれど、固定給をもらって原稿を書く日々です。スポーツ新聞以外、雑誌やラジオの仕事は自由にやらせてもらえて、助かりました。
新聞の世界では結婚はともかく、子供ができたら現場から離れる不文律があり、「梅田さんはもうライターとしてはおわり。子育てに専念してくださいね」と言われたこともあります。。普通なら育児休暇を喜ぶところでした。ところが、どっこい、それは収入がとだえることを意味します。
そんな中、トーチュウだけが「おめでとう!」と言ってくれました。他に大リーグのことを書けるライターがいなかった時代、野茂英雄がドジャースでデビューしたので、雑誌の仕事もとだえることはありませんでした。とても感謝しています。
なんの特技もない凡才の私が月収100万円ペースで仕事できたのも、はじまりはここでした。
次女が自閉症と診断されたときも、「もうやめよう」と思ったのですが、「できる範囲でいいから仕事して」と言ってくれました。毎試合はカバーできなくなり、アメリカ人の記者やスタッフを使ってコメントをとり、私が日本語訳して送るという形をとった時期もあります。
そんなかんや大手新聞社のS記者が不満をもったそうです。私と野球場で顔をあわせていたのに、何も言わず、普通に会話します。
その裏では「梅田香子をつぶそう」と他の記者たちとせっせと談合していた、と後で聞かされました。
彼らが連名でトーチュウにちくりのメールを送ったときも、トーチュウは「大きなお世話です」と返事して、守ってくれました。
私だけではなく、誰かが署名原稿を雑誌に書こうものなら、あらをさがして編集部にチクリのメール。他に何かすることありませんか~?まだネタがあるけど、長くなるのでこのへんで。
たしかに記者会見で質問するというのは簡単ではありません。いろいろ順番や作法が決まっているからです。それにもともとテレビ中継のショータイムではなく、あくまで新聞記事を書くためのpress conferenceなのです。
アナウンサーのように発声訓練を受けているわけでもなく、交際して結婚に持ち込むのが取材の目的ではありません。ご機嫌うかがいでもなく、むしろ最後に相手を怒らす質問をもってくるのは基本です。
なので、私には望月衣塑子記者の行動がごく全うなものに思えるのです。