スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

ヤレる女子大生のランキング?うっそー!というお話

「SPA!」という雑誌はたしかフジサンケイグループだったはず。

「ヤレる女子大生ランキング」の1位はなんと実践女子大学。飲んでいたコーヒーをふきました。

  もしかして、母校かも?

 否、私は短大卒だから、当てはまらないのかな。

 それで忘れていたことを思い出しました!

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 昭和の終わりの女子大生ブームを振り返っておきましょう。

 おにゃんこクラブより前だったと思います。仕掛け人は同じプロデューサーですね。

「えー!、うっそー!」という言葉がとってもはやりました。

 実践女子短大。私も妹もそこ通いました。実は母もここ。母の時代は専門学校みたいな雰囲気で、料理や洋裁を習ったそうです。私たちも習いました。

 はっきりいって(この前おきも、なぜかはやりました)渋谷校舎なんて、入学試験のときしか行ったことありません。

 実践短大は八王子の手前の日野駅。そこから長い坂をあがって、徒歩20分の超田舎でした。駅前は店もなんにもなし。
 げんちゃりでも通ったけど、多摩川を超えるあたり、寒いんですよ。

 夫の長男が私に「東京の実家って何区?」と聞いたことがあるのですが、区じゃないのw国分寺市!実践短大と大学は日野市にあります。

 4年大学は1年と2年はこの日野校舎で、3年と4年が渋谷校舎。短大はずっとこの日野校舎です。実家から近いしね。

 今はどうか知りません。

 JR線では急行が止まる駅ではなく、終電との戦いだから地味な校風でした。渋谷なんかで遊んだら、10時前に切り上げないと電車がなくなります。

 高等部は渋谷にあったから、エスカレーターで短大にあがってきた子たちは、お嬢さまのはしりだったかも。ツッパリなんかいません。いい家の子ばかりでした。

 私のときは、たしか入学式が日曜だったので、へんな感じがしました。

 なんでも創立者の下田歌子先生が上京した記念すべき日で、あの年はたまたま日曜にあたってしまったそうです。

 明治天皇および皇后から愛され、渋谷校舎の土地は受け賜ったとかなんとか。なので、土地の値段があがっても、売ってはいけないとかなんとか。

 良妻賢母をめざす方針で、学長の挨拶は「間違ってもキャリアウーマンなんてめざさず、卒業したら数年はOLして働き、結婚したら家庭に入ってだんなさまを支えなさい」なんて内容でした。
 
 その方針に従ったわけではありませんが、私も妹たちも勉強はともかく、家事能力は高いほうだと思います。料理も裁縫もうまいし、梅干しだってつけます。
 歴代の姑たち、梅田三姉妹のパワーにはまったく勝てていなかったと思います。(大笑)

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 短大も四年大も、キャリアウーマン志向は弱かったけれど、世間の評判はよかったせいか、就職先は銀行や商社が多かったです。学年で一人、JALに就職したら、うわ、すごいという感じです。

 国会議員になったとか、外務省に入ったとか、おそらく一人もいないはず。オリンピック選手もいませんw

 当時クラスメートたちの話題ももっぱら彼氏と彼氏の車のこと。(八王子の手前だから車もっていない彼氏だと厳しい)

 付き合う彼氏は少なくとも六大学でなくては人にあらず。(私が言ったんじゃありません。六大学でた人と付き合ったことないもの)

 信じられないほど、処女率は高かった。
 ゴールデンウィークや卒業旅行で彼氏と海外いっても、結婚までは最後の一線はこえたくない、どうやってのりきろう、などという話題でもりあがったりしていました。

 今はどうか知りません。

 卒業生で有名どころは少なく、向田邦子さんとうつみ宮土理さん。

 私は勉強が嫌いだったので、授業中することなくて、小説を書いていました。なので「勝利投手」のドラフト会議、指名される選手の名前が大学教授たちになっています。
 というのもパソコンではなく、原稿用紙に書いていました。脇役の名前を忘れてしまうから、教授の名前を使ったりしたのです。他意はありません。

 主人公の国政克美は、クラスメートに国政由美ちゃんという九州出身の子がいたからです。着物なんかも自分で着ちゃうそうで、かっこいいわ~なんて。「勝利投手」とは何も関係ありませんけど、立ち姿がりりしく、美しかった。

 書いた原稿はずっと短大のロッカーに入れていました。卒業のとき世間知らずもいいとこ、文芸春秋の「オール読物」編集部に郵送したら、400枚は長すぎますと言って送り返されてきました。

 親切ですよね。パソコンの原稿と違うから、コピーなんてとっていません。そのまま消滅してもおかしくなかったのです。

 そのままそれを「文藝賞」に応募しました。

 卒業して半年ぐらいしたら、「面白いので受賞するかどうかはまだわかりませんが、本にしましょう」と電話がかかってきました。

 発売された「勝利投手」を読んで、実践短大の先生方は非常にお怒りになったとのこと。
 とくに井口という大学教授は「梅田香子は白痴かと思うほど、勉強ができなかった」と授業中に繰り返し発言されたそうです。
 在籍していた妹はそれはもう肩身が狭い思いをしたそうです。

 とまあ、心が狭い、保守的な学風でした。 

 まったくSPA!と関係なくてすみません。

 ananの表紙にでたのも卒業後のこと。在学中だったら停学ものだったかも!?

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 P.S. ちなみに私の前の年の文藝賞は山田詠美さんの名作「ベッドタイムアイズ」。芥川賞候補になったのに、版元の社長は「非国民の小説だ」と嘆いたほど、昭和はまだまだ生きづらかった。「女流作家」なんて言葉があったほどです。