MM編集部とその周辺。
こちらはMMジャーナルの番外編。スポーツライター梅田香子のブログです。スポーツ以外のこと、バイリンガル子育てや自閉っ子との生活や旅行の日々を綴っています 。

日本史における武漢

 武漢といえば、実は日本とは縁が深い土地だ。
 第2次アヘン戦争の後、1858年の天津条約で、武漢市の一部、漢口(今は自治体としては「漢口」はなくなり、単なる地名となっている)が開港された。ここにイギリスを中心に、ロシア、ドイツ、フランス、イタリア、日本の漢口租界が開かれ、「東方のシカゴ」とも呼ばれるほど発展を遂げる。
 外務省で採用になったばかりの松岡洋祐や来栖三郎もここに駐在した。

 湿地帯が多く、たびたび疫病が発生したせいか、武漢暮らしが長かった日本人は刺身にお湯をあけて食べる人が多かったと聞く。(満州で暮らす人もこの習慣が多く、甘粕四郎や里見甫も生で刺身を食べなかった)

 日中戦争では蒋介石と日本軍がこの港を取り合う。

 巨人軍の沢村栄治も最初の徴兵では、武漢の近辺で手榴弾を投げていた。

 

 第2次世界大戦中になるとB29の大空襲があり、駐屯する日本軍部隊も含め、焼き尽くされた。
 
 226事件おたくの筆者は「燃える外交官~来栖三郎物語~」を電子書籍用に加筆しているところなので、漢口の部分だけここに貼っておきたい。ご笑覧ください。

 遠い昔、星野仙一監督の義理の祖父、来栖三郎の物語の一部です。この本は今年中に推敲が終われば、刊行したいものです。

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(来栖)三郎も松岡(洋祐)とスタートは同じ、漢口へ領事官補としての派遣だった。
 まず上海に上陸してみると、さすが東洋随一の都市だ。
 そこからさらに漢口へ。2度にわたるアヘン戦争の後、は1858年の天津条約により開港した港町で、「東方のシカゴ」という異名をとる。領事館や大使館は川沿いに上流からイギリス、ロシア、フランス、ドイツ、日本という順番で並んでいた。
 大英帝国の全盛期でもある。至る所でイギリス国旗ユニオンジャックがパタパタと風に翻っていた。

 ヨーロッパやアメリカに派遣された同期生たちは、大きな組織の中で手ほどきを受け、現地でハーバードのような大学に通わせてもらえた。
 ところが、中国に赴任した三郎には、ひとつひとつの責任が直接ふりかかってくる。
 それがまた、いちいち日本に響いてくる問題ばかりなのだ。いきなり甲子園のマウンドに立たされたようなもの。気をぬくことができない。
 三郎が赴任した翌年、長沙で暴動が起きた。
 損害賠償の交渉のために北京大使館から乗り込んできたのが、恩師の本田熊太郎一等書記官だった。
 たった一回の会合で、快刀乱麻を断つのが如し、見事に解決してしまった外交交渉ぶり。三郎はただただ敬服するばかりだ。
 清朝末期、風雲ただならぬ袁世凱の野心で紛糾している。この長沙事件以後も、租界でも革命党が爆弾を製造したとか、何名もの革命党員が捕まったとか、不穏な空気はつのる一方だ。
 ついに10月10日、中国革命の第一の烽火があがる。
 その日はちょうど日本訪問団のために、松村総領事によって総領事館で宴が催されていた。
 その最中、革命勃発の知らせが飛び込む。
 揚子江に臨んだ窓の外を見てみると、対岸の武昌で数か所から火の手があがっている。
 来賓たちは早々にひきあげた。
 三郎もひとまず自室に帰ってくると、ドアを叩くものがある。若いドイツ水兵だった。ドイツ総領事の使いで、
「ドイツ人は江上の軍艦に避難しています」
 と知らせてきたのだ。
 さっそく在留民の避難、彼らの財産の保護、本国や海軍との連絡などに追われる。心情的には中国に同情するものが多かった。
 日本から犬養毅・健親子、宮崎滔天や頭山満や玄洋社の面々が乗り込んできた。彼らはいけいけどんどんで、革命を支援しはじめる。
 ところが、日本の元老たちはなかなか方針を決まらない。ロシアの報復恐れる伊藤博文に対し、公家の近衛篤麿が猛反発する。
 この近衛篤麿という、アジア主義の盟主は剛腹な人柄で知られていた。伊藤博文に反発し、犬養毅や頭山満や宮崎滔天らを従え、革命を全面的に支援する外交策をとる。
 政府との間にははさまれて、漢口領事館としては動きがとれない。三郎は頭山や宮崎に、
「役立たず!」
 などと満座の中で面罵されて、
「べらんめえ!」
 と下がり気味の眉をきりきりとつりあげながら、椅子を倒して立ち上がった。
「来栖君!おさえない!」
 と松村総領事に静止された。
 さらに、日本人倶楽部で歓迎会を催した際、犬養の政府攻撃演説があまりに痛烈なので、短気な三郎は途中で我慢できなくなる。
「もの申したい!」
 と真っ赤な顔をして立ち上がり、一矢を報いんとした。このときも総領事に、
「来栖君!またきみか。歓迎の宴なのだから、おさえない!」
 と一括された。
 三郎は静かな外観とは裏腹に、反骨精神旺盛で、瞬間湯沸かし器のように短時間で火がつく。その代り、あまり根にもたない。けろっとして、ケンカ相手とニコニコと談笑したりする一面があった。
 
 この頭山満たちと三郎は、後に意外な場所で再会を果たす。
 頭山満は長く生きたが、近衛篤麿は40歳、宮崎滔天は52歳、それぞれ病で早世する。
 彼らの息子、近衛文麿と宮崎龍介が父の志を引き継ぐ。
 この龍介は「白蓮事件」で結婚した後、永田町麹町で近衛家や来栖家の隣人となる。やがて「蒋介石へ密使事件」の布石とつながっていく。
 ともあれ、行く先々で三郎は革命と独立に立ち会う運命にある。
 ここではまずプロローグ、中華民国の誕生に遭遇したのであった。