スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

赤字オリンピックふたたび~社会主義国初の資本主義運営  

 大赤字で終わったモントリオールの次は1980年、ロシアの前身、社会主義国のソ連の首都モスクワでの開催でした。
 
 ところが、当時は旧ソ連とアメリカ合衆国が世界を巻き込んで「冷戦」まっただ中。そこにアフガニスタン侵攻が起きたのです。
 
 ニクソン大統領の呼びかけで、日本も西ドイツも韓国もボイコットして参加せず。それは開会式のわずか6か月前のできごとでした。
 日本はすっかり参加ムードだったので、全盛期だったマラソンの瀬古利彦らが無念の涙を飲みました。私はまだ学生でしたが、神宮球場の行くと、いつも瀬古選手がぐるぐる走っていた姿を思い出します。当時は今みたいに海外での高地トレーニングなんて、夢のまた夢だったのですね。

 企業もすでにビクターがスポンサー、公式サプライヤーとしてはミズノやミカサやアシックス。日本を含めてボイコットした11か国のほとんどがすでに契約をすませていただめ、ソ連オリンピック委員会やモスクワ大会の組織委員会にはNBCテレビの放映料も各国のロイヤリティー(日本からは約6350万円)が支払われました。
 
 収益は莫大だったにもかかわらず、モントリオール五輪につづき、大赤字。日本円にして365憶6000万円の赤字をソ連がどう埋めたのかはわかりません。
 
 ただ私が暮らすシカゴはとてもロシアからの移民が多いところです。スケートのコーチだとペアで金とったオレグ・ワリシコフがいたし、4回転ジャンプ(五輪の公式練習では成功したそうですが、本番でもミスしました)のアレクサンドラ・フェデエフもいました。 

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フェデエフが結婚したときの記事。最近離婚したので独身です。

 彼らは社会主義については多くを語りません。ただ五輪をめざすような子供がいると、ソ連では教育費がほとんどかからず、キャビアがふんだんに支給されたそうです。
 基本が配給制度で、店には商品がほとんどおいていませんから、現金はあまり意味がなく、親がキャビアで物々交換したりしたのを記憶してるそうです。
 彼らは移住というより、亡命でした。ソ連がロシアになるまでは帰国しなかったはずです。シカゴで指導してくれていました。
 
 この時期はまだオリンピックといえば、4年に一度、夏と冬に開催されていました。グルーノーブル五輪は日本から渡辺絵美選手らが参加しています。
 
 とはいえ、こんなに巨額の赤字がつづいては、五輪開催したがる都市が現れるわけがありません。
 イスタンブールがいったんは名のりでたのですが、やめてしまい、1984年の候補はロサンゼルスのみ。
 
 ロサンゼルス市民たちは招致活動にあたって、住民投票で「赤字がでても市の税金投入は禁じる」という憲章修正条項を可決しました。つまり自分たちの税金は絶対に五輪に投入しない、という内容です。


 東京もこれをやっておくべきでした。今のまま「ボランティアに賃金を」なんて言っていると、後でモントリオールのように都民、あるいは日本国民の借金を増えるだけ。政治家は何も困りません。
 
 大学生だったマイケル・ジョーダンが金メダルをとったロサンゼルス五輪。これは商業的な意味で、オリンピックのターニングポイントとなりました。


 そう、ピーター・ユベロスの登場です。彼は後にプロ野球コミッショナーになったので、私は何度かインタビューしています。ナンバーじゃなかった、まだ手書きの原稿。どこかに残っていないかしら・・・・
 
 このロサンゼルス五輪をきっかけに、形勢逆転ホームラン。五輪は黒字がつづくようになるのです。