スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

中学ほとんど行かずにバイリンガルになったお話(幼稚園・小学校編)

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 長女Mは1995年、シカゴのパークリッジ総合病院で生まれました。

 母がたびたび来てくれて、ビデオをもってきてくれたので、家では日本語ばかりです。「おかあさんといっしょ」や「どらえもん」や「ポケットモンスター」をいつも見ていて、ヒロミチお兄さんがお気に入りでした。

 言葉は遅く4歳になるまで、「ぴかちゅう」のマネばかりしていました。

私「ごはんよー!」

長女「ぴっかぴー」

私「なんかちゃんと話してごらん」

長女「ぴーかー!」

 小学校に入る前、友だちと公文に通わせてみたら、ひらがなカタカナはすぐ書けるようになりました。「どらえもんの九九」を車でいつも流していたので、自然と覚えました。


ドラえもん九九のうた 大山のぶ代ver. / Doraemon Multiplication Table Song

 5歳のとき、長女はフィギュアスケートに夢中になりはじめました。公文は主語述語がどうの、という内容になったら、嫌がったので、やめました。

 今だったらこんな無料サイトもあるので、通わせなかったかもしれません。

happylilac.net

 土曜日の日本語補習校は一度も行っていません。理由は土日はデーゲームが多く、私は送迎ができなかったからです。

 長女は幼稚園でも公立小学校でも、たった一人の日本人でした。

 ただスペイン語母国の子も多く、先生たちはさほど対応に困らなかったようです。

 次女は同じ小学校には通えませんでした。重度の知的障害の疑いがあり、スペシャルニードといわれるクラスのある別な公立に越境していました。これは自宅までバスが来てくれます。
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 アメリカは小学校から飛び級もあり、落第もあります。


 長女はどうも国語(英語)力は足りなかったらしく、2年(2nd grade)になるとき、「国語だけ1年生をもう一度やったほうがいいのでは?」と言われました。

 3年になると国語だけ2年。

 追いついたのは3年生(3rd grade)からです。

 スペイン語の授業もあり、これはよくできたそうです。

 ハローのかわりに、「オラ!」なんて言っていた時期も。

  九九が頭に入っていたので、「算数が神のようにできる」なんて先生に言われましたが、これは普通レベルになっていきました。

 担任のミセス・デービスはコピー機で、ミセス・デービス・マネーなんていう紙幣を作っていました。ちゃんと宿題をやった子にはこのマネーを与え、逆に忘れた子からはマネーを徴収していました。(この金銭感覚が大人になった今、役だっています)

 

 州によって違いますが、イリノイ州は小学校は5年生まで、中学は6年生からです。

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 長女は朝5時に起きて、リビングでストレッチ。スケート場で2時間練習して、午後も2時間。夕飯を食べると午後7時ぐらいには寝てしまうので、そのへんでシッターが来て、私はメジャーリーグの取材に行ったりしていました。

 一方で自閉症の専門医やSTのところも通っていましたが、次女は自発語どころか、オウム返しでも言葉を発することはありませんでした。

 それまでは年に10日ぐらいしか日本にいなかったのですが、思い切って日本の医者や療育を試してみたいと考えるようになりました。

mmcompany.hatenablog.com

 次女は香椎小学校の特別支援クラス、長女は6年生の年齢だけど、5年生のクラスに入れてもらいました。
 今は校長も変わり、雰囲気も違うそうです。

 当時は遠くからも評判を聞きつけて、越境で知的な障害な子たちが集まっていました。

 知的障害児の数が多く、健常児たちも交流クラスなどで馴れていたようです。

 そのせいか、いじめがない学校としても知られていました。

 同じ学区の中学は2つの公立小学校からの生徒が合流する形です。

 「香椎小のやつらは皆ガイジ(障害児への差別用語)だ」などと言われ、もうひとつの小学校出身者からいじめられたりもしたそうです。

 さて、小学校に話を戻します。

 長女は先生たちが日本語が、さっぱりわからなかったようです。でも、わかったふりをすることだけはすぐ覚えました。(これは日本のフィギュアスケートの先生方も言っていました)

 「今日ね、新しいお友だち2匹、遊んだの!楽しかった」(二匹とはいわない)
 「職員室ってなーに?」(これはいつも)
 「あそこってセレブの小学校なの?小学校なのにプールがあった!」(たいていの帰国子女がこれを言う)
 「私にハーフってみんな聞くんだけど、私ってどこが半分なの?」(のわけない)
 「学校で千と千尋ごっこみたいなのをやった。面白かった!」(これはずいぶん後になって、雑巾がけのこととわかりました。雑巾みたことがなかった)

 授業はもっぱら自習。何か本を読んでいい、ということになり、ハリー・ポッターの英語版や公文のドリルをかばんにいれていました。

「どうしても退屈したら、下の子がいる特別支援クラスは人手が足りないから、そこに行って手伝って」とも。
 なので、給食の後はほとんど次女の特学クラスにいたようです。

 これは相当に楽しかったらしく、先生たちとの付き合いは今でもつづいています。教えることの楽しさに芽生えたのも、このときのようです。

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 こんなふうに小学校は最後の1年だけ、長女は楽しくすごしました。ただ中学はちょっとこの日本語力ではむずかしいだろう、とも。
 インターナショナルスクールを進められましたが、あんなの月謝25万円の世界です。
 次は気がむいたら、波瀾万丈の中学校編。

 ばいなう!