スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

活字中毒者が活字にこだわるお話

 

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  四国の家にカラーコピー機が来ました。白黒は別にリースがあります。(こわれた場合の処分が大変なので、リースのほうがおすすめです。60年ローンで利子無し。月1万円きります。ただ審査があって新規事業はだむずかしい。購入したら白黒なら30万円代ですよ)

  夫が設計もやるので工務店用で、ファクス兼用です。

  近い将来、一家に一台、カラーコピー機なんて時代がくるかもしれません。電子書籍で注文したら、たったらた~♪と好きな形の本にしてくれたりしてね。がんばれ、オリックス

 

 椎名誠の初期の代表作に「活字中毒者地獄の味噌蔵」という作品があります。

もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵 (角川文庫)

もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵 (角川文庫)

 

  活字中毒者!

 

 たぶん私はこれ。アメリカに引っ越しときもいちばん悩んだのは、日本の本たちをどう連れていくか。今だったらアマゾンも電子書籍もあるから、悩みませんけどね。

 

 昭和40年代、小学校にはまだコピー機がなく、ガリ版が主でした。

 私はあのがりがりした感触が大好きでした。

 後に226事件の将校たちも、将軍たちも、このガリ版で文書つくったと知り、ドキドキしてしまいました。

 あの時代の新聞社は必ず伝書鳩を飼っていて、甲子園球場から試合が終わると何羽も鳩が飛び立ったそうです。

 

 中学生になると昭和50年代。ぼちぼち文房具やにコピー機が登場。ブラスバンド部の譜面はそれまで自分のパートを手でうつすのが普通だったのです。

 

 その後、ミニコミ紙「星野新聞」を発行するうえで、活字化にはずいぶん悩みました。

 

 プリントゴッコのB5版なんてのを、わざわざ新宿の紀伊国屋書店の裏まで買いに行ったこともあります。

 

 それとカシオのワープロというのがあって、これは1文字ずつ漢字にしていくというもの。バイトして買いました。

 

 私の親は何をするのもかたっぱしから反対するタイプだったので、テレビを見ていた父がロサンゼルス疑惑のM氏が「お、ヨーコと同じワープロもっていたぞ~」と言ったりしていました。どうでもいい!

 

 ただ初期のワープロはロットが荒く、印字がきれいではなかったのです。

 なので、思いきって和文タイプライターを買いました。11万円ぐらいかな。これもバイトのお金。

 配達にきたセールスマンがどうみても普通の民家だし、普通の10代女子が買い手だったので、きつねに包まれたような顔つきをしていました。

 これは文字もきれいでした。かしゃーん、かしゃーんと活字を選びながら打つので、スキルはいりませんが、時間はかかります。

 

 90年代から新聞社の仕事は「週配信システム」というのがはじまり、ワープロから送信できるように設定してもらいました。

 

 でも、アメリカにきてしばらくは「録音パンチ」というシステムに頼っていました。これはマルやバツもふくめて、自分の原稿を大声で読み上げ、新聞社内の担当者が文字に起こすというシステムです。

 まだ他に日本人記者がいない時代、記者席で自分の原稿を読むのは勇気がいりました。たしかマイケル・ジョーダンの引退記者会見なんて、日本時間の夜2時までは朝刊に入れるってことで、現場から中継した記憶があります。

 

「日本人はまさか本を書くとき、ハンドライティングじゃないだろうね?」と地元シカゴの記者に、よくからかわれたものです。

 

「こういう原稿用紙に書いて、本を書きましたよ」

 といったら、ホワイトソックスの記者席がどよめいてしまったほど。

「聞いてくれよ、この日本人は本一冊分の原稿を手で書いたそうだ!」って。

「ええ、本を一冊分、信じられない!」

 と試合中なのに、ざわざわ。そんなに驚くことかしら。

 

 日本語のウィンドウズ95が大ブームになったのは、文字どおり1995年。秋葉原のイベントにトミー・ラソーダ監督が招待され、ギャラを聞いたら野茂の年俸とそう変わらない。たった1日だけのイベントなのに。

 信じられないほど、パソコン業界が儲かっていた時代でした。

 ばいなう!