【動画レポ:阿部純子 映画『ソローキンの見た桜』製作発表会見】
さて、この映画は冒頭シーンがとてもよかったです。それから
海岸のシーン!理由はもうこちらで書きました。
日露戦争のとき、ロシアの兵士たちはもう闘うのが嫌になり、「まつやま、まつやま」と叫びながら投降してきました。松山=捕虜と勘違いする輩もいたようです。「坂の上の雲」に書いてあります。
そこがはじまりのシーンで、迫力がありました。
映画館のあちこちから、すすり泣きが聞こえました。
捕虜虐待が問題になるのは第二次世界大戦からです。
日清日露戦争当時の日本は植民地にされないよう、世界の一流国の仲間入りを果たすため、必死でした。なので、外国からの観戦武官や報道記者、それから捕虜をそれは大切にもてなしたのです。
愛媛県の松山にバラックで収容所や病院が作られ、将校クラスは寺院が宿泊施設として提供されました。
遊郭や道後温泉も利用できます。
捕虜たちには陸軍省から給料が与えら、食事は洋食が支給されます。
酒もたばこも買うことができて、祖国への手紙も検閲はあれ、郵送費は日本もちでした。
経費がかかってたまらず、ときどきは捕虜交換で国に返します。
骨董品のおみやげは人気があり、帰国のときいろいろ買ってくれるので、松山に経済効果がもたらされます。いくかの恋もあったようです。
ストーリーはあちこちに伏線が組み込まれていました。
ネタバレになってしまいますから、動画の宣伝を参照されてください。
さて、映画には描かれていない時代背景を。
日露戦争は日本が終わった後、ロシア革命が起きて皇帝ニコラス一家は追放され、それはもう残酷な最後をとげます。
貴族や芸術家はラフマニノフのようにロシアを脱出したものが多く、日本で暮らしたロシア人もいます。彼らは主に音楽やバレエ、ダンスやスケートや体操の教師として日本に新風をふきこんでくれます。
福岡でフィギュアスケートを指導されている石原美和先生(元五輪スピード金メダリストと結婚されて名字が石原になりました)、津留泰先生、津留豊先生、新横浜の津留智恵美先生は仲のいい姉弟で、皆さん4分の1ロシア人の血筋だそうです。
それから松山には後の首相、広田弘毅や後の大使、来栖三郎など、語学を学ぶ大学生たちがボランティア通訳として、送り込まれてきています。
後年、シカゴ領事館になった来栖大使は、窓ふきのロシア人に話しかけられます。
「捕虜として松山ではよくしてもらった。次に戦争があったら日本のために戦いたい。外国人部隊はないのか?」と。いい話です。
↓そして、ときを経て、こういう話につながります。
私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと
— 梅田香子⚾️Yoko Umeda🇱🇷🇯🇵 (@yokoumeda) March 29, 2019
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