2月26日でした。
私は昭和史おたく、とくに2・26事件おたくなのです。
この関連本だけは処分しないことにしているので、たぶん古本も入れて100冊以上。なので実家でも夫にも嫌がられ、本棚ではなく、押入れの隅に入れてしょっちゅう読み返しています。
私は星野仙一事務所がたまたま2.26事件の現場に近かったことから、興味をもちました。
その前にこういういきさつがあります。私の原点(笑)
星野仙一事務所のあった来栖ビルは、3階建てのビルに改築されたばかり。1980年代は同じ階に麻生太郎後援会の事務所なんかもありました。
もともとこの場所は星野扶沙子夫人の実家、来栖三郎大使の自宅だったのです。
麻生さんの祖父、吉田茂と来栖さん、それから近衛文麿は盟友だったので、その関連かもしれません。
壁にはたくさんの写真が無造作に飾られ、その中の一枚、赤ちゃんだった扶沙子夫人が吉田茂にだっこされているものが混じっていました。
来栖さんはシカゴ総領事を終えて帰国した後、隣家の近衛家が土地をわけてもらい、ここに洋館を建てたそうです。
近衛邸のむこうが総理大臣官邸で、人の出入りが激しく、近衛さんは総理大臣になると、荻窪の家を好んで使っていました。自決された後は、吉田茂もその部屋で寝起きしたそうです。
青年将校たちが最後に立てこもって山王ホテルは、地下がスケート場になっていて、来栖家の子供たちもそこの常連でした。シカゴ育ちなので、スケートはうまかった。
東郷茂徳(開戦と終戦のときの外務大臣)の娘も、スケート倶楽部員でした。もちろん稲田悦子先生も。
山王スケート場を拠点とする東京フィギュアスケート倶楽部では練習が終わると、来栖家でお茶をするのが日課になっていたのです。
来栖大使の妻、アリスはニューヨーク出身で、あまり日本語がわかりません。
2.26事件のときてっきり演習だと勘違いして、兵隊たちに炊き出しを提供したりしていました。場所は三宅坂交差点の三角公園の寺内正毅像(今は裸婦像に変わっています)の前あたり。なので、安藤輝三部隊だったと思います。
後日、これを新聞記者に指摘された来栖大使は、「べらんめえ、腹減った兵隊に女房が飯を食わせて何が悪い!」と担架を切ったそうです。
顔つきは穏やかですが、来栖さんは横浜出身なのになぜか「べらんめえ」が口癖で、すごく短気な性格でした。
青年将校たちは渋谷のNHKセンターの駐車場、税務署のあたりで、5人ずつ銃殺刑になりました。
まだ中日の監督になる前のお話。
星野仙一事務所では電話番の女性は霊感が強かったので、廊下でしょっちゅう兵隊たちの幽霊を出くわしたそうです。
星野さんは私に、「霊感、あるか?」「いーえ、まったく」「なら、うちで電話番のバイトせい」となりました。
Eメールも携帯もなんもなく、事務所には電話番がかかせない時代でした。
中日ドラゴンズの監督になったとき、私も中日新聞社のスポーツ新聞で記者として仕事するようになります。
今でもときどき、といっても何年かに一度、国立図書館に行った帰り、あのへんを散歩します。
そんなかんや人のつながりと歴史の奥深さを面白がりながら。ばいなう。