「光とともに」という漫画、大大大好きでした。シカゴの家においといたら、スケートの子たちが読んで、
「感動したよー。」「つづきよみたーい」と言ってくれました。
あの本で、姑は露骨に自閉症の光のことを嫌い、バカにしています。その一方で健常児である妹のほうに愛情を注ぎこんでいます。
私のママ友たちは、みーんなあれと似たようなことを経験しています。
自閉症の孫に理解がある姑なんて、なかなかいないと思います。
「うちの家系にはいないからね!」
なんて言われたりします。
友だちのところでも、夫婦げんかをしていたら、姑が「兄(健常者)は跡取りだからおいていきなさいよ。弟(自閉症)は連れてでていってもいいけど」と口をはさんだりするそうです。
私はアメリカで子育てしていましたから、栃木県の姑とはさほど接点がありません。
それでも、姑は「香子さんは俊介のことを奴隷のように扱う」と批判したものです。(なので、私は日本人が使う「奴隷」という言葉が嫌いなのかもしれません)
姑は食品会社の社長夫人でもあり、自分は私立の国語教師をしていました。
2千万円かけて長男をバークリー音楽大学へ。
次男は国立大学から大学院へ。
私が生まれ育った家とはだいぶ違うセレブでした。
1995年。初孫(つまり私の長女)が生まれた夏休み、姑たちは2人で96万円というJALの飛行機でシカゴにいらっしゃいました。
ところが、残念なことに、写真の義父は胃がんで早世されます。59歳でした。
喪主をつとめたのは次男(前夫の弟)のほうでした。
彼は大学院を中退して、植木職人の見習いになっていました。
なんでも義父が遺した遺産は食品会社の自社株とゴルフの会員券で、日本の景気が回復したら5千万円になる。そうなったら重機を買って起業できる。それまで見習いなんだそうです。
同じ時期、郵便局で勤務するS美ちゃんと知り合い、結婚しました
義理の弟夫婦はそのまま栃木の実家で姑と一緒に暮らし、2人の子供たちにも恵まれました。私も何度かは会っています。
あるとき、姑が「割烹着がほしい」というので、さっと縫ったものをもっていったところ、
「まあ、香子さんは本当にありがたい。S美ちゃんなんて絶対にこんなことはしてくれない」と何度もしつこく言うので、困ってしまいました。
「S美ちゃんと同居はいやだ、窓の面倒をみるのもいやだ、一人暮らししたい」という手紙が当時、シカゴにはたくさん届きました。
S美ちゃんは郵便局勤務がきついらしく、バスを乗り継いで夜9時ぐらいに帰宅します。休む間もなく、2人の子供の面倒と家事です。
「おふくろは絶対におやじに家事なんかさせなかった」という前夫の言葉どおり、義理の弟も家事を手伝うというタイプではありませんでした。(ただまじめで、浮気三昧という人ではなかった。兄思いだったので、浮気の協力はしていたようです)
よくよく聞くと、息子たちが小さかったとき、姑は自分の母親を同居させ、家事と子育ては一任させていたそうです。
そして、子育てが一段落したら、お別れです。
前夫が中学生のとき帰宅したら、階段のところで祖母は首をつっていたそうです。
なので私は夜中にトイレにおきて、階段を昇り降りするのが怖くてたまりませんでした。冬も夏も吐く息が白く見えるほど、なぜか階段はいつも冷蔵庫のように冷たかったのです。
次女が自閉症と診断されてから、姑は年賀状の名前も長女しか書かなくなりました。
一度も会わなくなかったし、これから先も会うことはないでしょう。
ゴルフの会員権が5千万円になったかどうかは知りません。私には関係がないことだから、もともと興味が薄いのです。