ドラフト会議前にもうひとつ、日枝神社でした。
ここのお猿のお守りやシールはとても評判がいく、御利益があるようです。なので、家族や友達や海外への土産用に買っておきます。
階段を上るのはしんどい。でも、がんばった。ここはすごく気持ちがおちつく、美しい神社なのです。
戦争中はここに皇居を守るために高射砲が置かれました。
ゾルゲも視察に来たようです。
神社の敷地の隣は日比谷高校。ここは戦前は尾崎秀実たちも卒業した東京府第一中學(府一)があったところです。
まるで帝大への予備校のように、日本中から優秀な人材が集まり、寮生活をおくっていました。
226事件のときは安藤輝三中隊長がこの府一を占領。
いったんは旗を建てました。が、料亭幸楽、山王ホテルへの移動しました。途中で街頭をこわしながら、進軍ラッパを鳴らし、行進したのです。
日比谷高校の生徒たちがせっせとランニングしていました。とてもいい顔つきをしています。頭よさそう。でも、日ごろから頭だけではなく、体も鍛えているのでしょう。
走るフォームが固まっていました。
日比谷高校の裏門からすぐのところに、メキシコ大使館があります。その真向いに来栖ビル。中日ドラゴンズを退団した星野仙一さんが最初に事務所をもったところです。
終戦の年の12月に生まれた扶沙子夫人が育った場所。この裏が広大な近衛文麿邸で、空襲ですべて焼け野原になり、近くのお寺を間借りしていました。
来栖家は軽井沢の別荘を売って、土地の半分にアパート、半分に家を建てて、再建します。「神宮の恋」で、結婚の申し込みに行った家でもあります。
地図に見える山王パークタワーに山王ホテルがあり、そこでスケートした後、稲田悦子も東郷いせのような東京フィギュアスケート倶楽部の愛好家たちも、来栖家でお茶をする習慣がありました。
この写真の坂をあがり、左に曲がったところ。そこに来栖ビルがありました。
もともと来栖アリス夫人はインテリアに凝るアメリカ人女性で、椿や桜に囲まれた洋館だったそうです。昭和48年に亡くなり、麻生和子(吉田茂の娘で、麻生太郎の母)がミサでスピーチしました。
私が立っているところ通りからは、左の方にホテルニューオータニーが見えます。このニューオータニーの近くに文芸春秋社がありました。
星野さんは「ナンバー編集部」のアドバイザリースタッフをしていた時期があります。
ドラフト会議では新しい世代の監督が勢ぞろい。工藤公康、与田剛、井口資仁、栗山英樹。なんかもう若いときを知っているので、私はなんだかもう面白くて、おかしくて、すごく楽しかったです。このことはまた後で書きます。
監督だけではなく、王貞治さんのように、星野さんよりもっと年上の人たちも、溌剌と仕事していました。
この坂の写真をみると、やっと実感がでてきて、ぐっと寂しさがこみあげてきます。ああ、もう星野監督はこの世にいないのだ、と。早すぎましたね。まだまだ野球界に貢献する方だったのに。