スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

NOMO MAXいずこ?

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 昭和史おたくになったのは星野仙一氏と知り合う前後からだったと思います。ここに書いたような縁がありました。

bunshun.jp

 東京裁判を録画したものが映画化されて、出版ブームがありました。妹はデートに誘われて、つまらなさに腹をたてていましたが、彼氏がいなかった私は一人で見にいって堪能しました。はじめて動く来栖三郎を見たのです。
 
 少なくとも私が使っていた山川出版の歴史の教科書にも、来栖三郎は三国軍事同盟のところで写真も載っていました。
 でも、来栖三郎についてはほとんどの歴史家が素通りしています。

 稲田悦子先生も226事件の兵隊たちと同じスケート場で練習していたり、吉田茂の公邸に住んだりもしたのです。が、スポーツの記者はともかく、いわゆる歴史家からの取材は一度も受けたことがないそうです。

 べつに有名になりたいという願望を彼らはもってはいなかったと思います。
 だから、どうでもいいことではあるのですが、私は昭和史にどっぷり染まったおかげで、世の中が次はどう動くのか、想像がつくようになった気がします。

 よく編集者から「怖いぐらい梅田さんの予想があたる」と言われてました。

 とはいえ、大統領選挙や日本シリーズの勝敗は予想がよくはずれるので、それはたまたま当たったのでしょう。

 

 星野さん、私に電話くれたときは決して全国区のスターではありませんでした。

 マイケル・ジョーダンは別格にせよ、野茂英雄にしても大リーグでは絶対に通用するわけがない、という評論家が多かったのです。

 たしかに出産を終えてフロリダに飛んだとき、野茂は投球フォームが崩れていて、生きた球を投げていませんでした。ドジャースの首脳陣も最初は巨人をやめた定岡が記念にキャンプに参加したような扱いで、本気にとっている様子ではありません。

 ところが、野茂が日に日に調子をあげていったのです。ベロビーチのキャンプは記者席の前がブルペンになっていて、キャッチャーの受ける音がどんどん変わっていきました。「あれ、すごいことになってきたかも」と報道陣がつぶやく中、ラソーダ監督をはじめとしてコーチングスタッフが次々と集まってきて、「これはすごい」という表情をしているのが見えました。

 ドジャースの会長だったオマリーがこの頃、星野監督に国際電話を入れています。

「野茂とドジャースが契約したら、日本のプロ野球はドジャースを批判するでしょうか?」

 星野監督は「そんなことはない、契約すべきだ」と答えました。ただし、そのとき一つ条件をつけたのです。これは野茂とは直接関係ない話なので、また違う機会に。

 それが1995年のことで、私がアメリカに拠点を移したのは1990年。

「梅田さん、大リーグなんて取材しても、日本では人気ないから食えないよ」

 と同業から何度も言われました。

 野球以外にもJALの機内誌やニュース番組のコーディネイトなんかもやっていたから、食べていけないということはなかったのです。が、1995年をきっかけにスポーツライター業1本でやっていけるようになったのは事実です。それまでは出産するときは、ヤオハンの本屋さんに就職させてもらおう、なんて考えていました。

 ナイキがつくったノモマックスというスニーカーがよくて、前夫の父親にプレゼントしたのです。今もネットでさがしているのですが、なかなか見つかりませんね。

 

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