スポーツライター梅田香子とMMカンパニー&CHICAGO DEFENDER JAPAN

梅田香子 contribute to MM JOURNAL

ぼこぼこ場外乱闘編

スポーツライター梅田香子の日常を日本語でメモ代わりに綴ったものです。

うわー、与田剛新監督ですと!

 中日ドラゴンズの新監督に与田剛が決定ですと!

 

 うわー。どっと汗。心臓ばくばく。

 

 穴があったら入りたいような青春の思い出。うーん。忘れていたことをたくさん思い出してしまいました。たぶん与田っちは忘れているであろう。たぶん。忘れていてくれーっ。

 

 最初にばったり会ったとき、不倫相手と一緒でした。与田ではない、私のほうです。

 若気の至り、海より深く反省しています。やっぱり人の道に反したことをするとブーメランみたいに戻ってくるものですね。私が最初に結婚した相手は19年間で、「10人は不倫した」と豪語してしまうような人でした。

 

 はいはい、話を与田新監督に戻します。

 

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 今まで何人の野球選手と話をしたか、数えられません。最初が星野仙一だったのはたしかですが、あれは19歳ぐらいのとき。

 

 インタビューしたアスリートは千人超えているかな。その中でたった一人、与田だけでした。自分の名刺をだして、きちんと頭を下げて両手で渡してくれたのは。「中日ドラゴンズ 投手 与田剛」と書いてありました。

 球団に頼んで作ってもらったそうです。さすが社会人野球出身。

 と、社会人野球出身は他にもたくさんいますが、名刺を渡してくれたのがこれが最初で最後。

 もちろん私のほうは名刺を用意しています。でも、野球評論家も普通はもっていません。

ましてや選手が名刺なんて・・・。普通はもっていませんよ。

 さすがにトレーニングウエアだったので、与田本人が持っていたわけではなく、横にいた新婚の木場弘子さんに、「おい、あれ」と声をかけて名刺をだしてもらっていました。

 当時はまだ女子アナの数が少なかったので、木場弘子さんとはたしか面識がありましたが、場所が場所だったので彼女もやや緊張していたようです。

 ビデオカメラを持参していて、

「あの、撮影しても怒られないでしょうか?」

 と聞かれました。

「大丈夫です。ライアンはそんな人ではありませんから」

 中日ドラゴンズの国光通訳も同伴していて、

「やあやあ、おひさしぶり」

 1994年のシーズン、与田は不調でした。28歳。後がありません。どうも中日の場合、新人王をとった後がよくないのです。

 サンディエゴでトム・ハウス投手コーチと自主トレしていて、

「ちょっとノーラン・ライアンにもみてもらおう」

となりました。「生きる伝説の投手」と呼ばれたライアンは筆者がたまたま行った試合で、ノーヒットノーランを達成したり、エピソードはたくさんあるのですが、それはまた違う機会に。

 まだ野茂英雄が大リーグ入りする前、携帯電話もなく、国際電話も遠い時代。

 日本から報道陣がどっと押しかけたものの、ロサンゼルスで地震が起こり、空港が閉鎖してしまったのです。

 シカゴの自宅から飛んできた筆者は、正直もう嬉しくって踊ってしまいそう。星野監督だったら得意の川上監督のモノマネがでていたでしょう。

 単独スクープ間違いなし!という絶好のシチュエーションです。そして、事実そうなったのです。

 野茂のノーヒットノーランのとき、「噂の真相」に「梅田香子だけいて、各社歯ぎしり」と乗りましたが、まさにそういう表現がぴったり。

 今は取材規制ばかり厳しくて、取材経費もおさえられているので、記者同士が談合しがちですが、当時はもう根性ものを地でいくほど競争が激しかったのです。

 まだデジカメがなく、一眼レフで撮影して、現像して、それをAP通信社から日本に伝送するのは、今なら労働基準法に違反するほど、時間がかかりました。

 インターネットが普及したのはウィンドウズ95からなので、1995年から。新聞社はそれより早く集配信システムを取り入れていましたから、それで原稿は「東京中日スポーツ」に送ります。これが兄弟会社の「中日スポーツ」や「西日本スポーツ」に載る仕組みでした。

 ちょうど古いアーリントンスタジアムの隣に、新しい今の球場を作っているところ。古い方のスタジアムのマウンド上で、夫妻の記念撮影もぱちり。与田夫妻はこのときの記事と写真を額縁に入れて飾っていました。年賀状も。

 マウンド上の写真は、私に手元には残っていません。新聞社にはあるでしょう。

 

 この写真はinverted Wのフォームやコッキング動作を指導されたときのものだと思います。腕が垂直になったとき、与田投手のボディがすでにホームを向いてしまっていました。

 ともかくあの血が逆流するような思い。

 涙がでそうな達成感。

 天がわれに味方した、という謝意。

 あの喜びは体験した人にしかわからないと思います。おそらくマウンドで勝利を決めた瞬間のピッチャーそっくり。こんな感じなのだと思います。

 きっとあのとき空港で足止めを食らった記者たちは、「梅田の野郎(じゃないけど)、いい気になるなよ~」 

 と思ったに違いありません。

 ぶっちゃけた話、毎月のサラリーは固定なのだから、1本のスクープで生活がどうこうなるわけではありません。でも、他の誰もが伝えていない真実を地球の裏側にレポートする。生まれ変わっても私はまたスポーツ新聞の仕事をしたい、と思っています。

 それはもう面白い!の一言に尽きます。

 落ちついたらまた与田の後日談を。いろいろあったのです。

 今はもうなんだか弟が中日ドラゴンズの監督に就任してしまった気分です。来シーズンは全試合、はらはらどきどきになりそう。

 来年の今頃、みんな一緒に笑えますように!

 あ、再来年でもよいです。

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